ドイツの政治教育 成熟した民主社会への課題
近藤 孝弘岩波書店
岩波書店
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本書はドイツを論じたものだが,いわゆる小泉劇場に見られるポピュリズムや靖国参拝のような歴史認識問題といった,いまの日本の政治状況への批判が著者の本当の意図であると感じた。著者は,これまでドイツの過去の克服,とくにヨーロッパで進めてきた歴史教科書対話を日本に紹介してきたが,本書は,そのような努力をドイツがなぜ行なうことができたのか,逆に言えば日本はなぜそれができないのか,という疑問に答えようとするものと言えるだろう。
著者によれば,日独の違いは民主主義に対する理解の相違に基づくのだという。その主張を私なりに解釈すれば,日本では保守派はもちろん革新的知識人までもが,アメリカ民主主義を過度に理想視してきたことが,民主主義をマスメディアによる単なる世論操作のゲームの場とすることになってしまった,ということになる。それに対してポピュリズムとしてのナチズムへの反省に立つドイツでは,いわゆる知識人が民主主義の番人として一定の役割を果たしてきたようである。
とくに興味深いと思ったのは,いまはなき社会主義の東ドイツがどのような国家であり,それが統一後のドイツにどのような政治的影響を与えているかについての記述である。著者は,資本主義の道をひた走る日本が,実は愛国心教育を強調した東ドイツと似ているということを指摘するが,当然のことながら,そこに描かれた東ドイツ像は中国や北朝鮮の姿を連想させる。これは結局,日本もその隣国も似たりよったりということであろうか。
いずれにしても,ドイツを知ることにより日本社会の現状について新たな批判の視点を獲得させてくれるという意味で,多くの方に読んでいただきたい本である。
連合赤軍 少年A
加藤 倫教新潮社
新潮社
本書は、有名な山岳ベース事件、あさま山荘立てこもり事件に関わった著者の目から、事件を冷静で分析的な文章でつづったものである。
当時の時代状況のほかに、著者個人の、極端に権威的な父親に対する反発や、その父が軽視していた弱者への共感といった、内面的な動機が語られている。
本書のクライマックスはやはり山岳ベースにおける連続リンチ殺人である。
被指導者クラスであり、発言権がほとんどなかった著者にとって、連合赤軍の幹部たちの「総括要求」は「ほとんど言いがかりに近い」ものと映り、いつ自分が対象になるかわからない危機感が強くあった。「ものを言えば殺される」という状況において、著者の心が恐怖に閉じていく様子がなまなましく伝わってくる。
著者の語る通り、幹部である永田洋子や森のメンバーに対する総括要求の基準は、相手が自分に賛同的かどうかという強い偏りがあった印象を受ける。読者の目にも、私情を思想に転化して攻撃性を発揮したとしか思えない言動がある。しかし、山岳ベースにおいては、本人も周囲もそれを意識することができない閉鎖的状況が作られていたのだろうと推察される。
著者は「あのとき単純に“おれの友達に何をするんだ!”とぶつかっていけば、惨劇は避けられたはずだった」と悔やむが、大義の呪縛はその単純で自然な感情を許さないものだったのかもしれない。
現代の視点からみれば、なぜ彼らが、こうも激しくイデオロギー的熱狂に駆り立てられ、たやすく高揚感に身を任せてしまうのかと、危うさを感じてしまうが、それにはさまざまな要因があったことがわかる。
著者は、多くの若者たちにとって政治活動は「卒業していくファッション」だったが、連合赤軍は違ったと語る。
「イデオロギー」そのものは一概に悪いとも良いともいえないかもしれない。
だが、それが個人よりも上位に置かれ、個人の感情から目をそらすものとして利用された時、いかに残酷な事態を引き起こすかを教えてくれるという点において、現代にも通じる重さを持った本だった。
なお、著者は長い刑期を終え、現在はボランティアとして環境保全活動に取り組み、多くの成果をあげていると言う。
本作の最終章に詳細に語られているその活動には、かつての熱狂や対立の空気はなく、著者が少年期から望んでいた宮沢賢治の「でくのぼう」的生き方が反映されていると感じた。
当時の時代状況のほかに、著者個人の、極端に権威的な父親に対する反発や、その父が軽視していた弱者への共感といった、内面的な動機が語られている。
本書のクライマックスはやはり山岳ベースにおける連続リンチ殺人である。
被指導者クラスであり、発言権がほとんどなかった著者にとって、連合赤軍の幹部たちの「総括要求」は「ほとんど言いがかりに近い」ものと映り、いつ自分が対象になるかわからない危機感が強くあった。「ものを言えば殺される」という状況において、著者の心が恐怖に閉じていく様子がなまなましく伝わってくる。
著者の語る通り、幹部である永田洋子や森のメンバーに対する総括要求の基準は、相手が自分に賛同的かどうかという強い偏りがあった印象を受ける。読者の目にも、私情を思想に転化して攻撃性を発揮したとしか思えない言動がある。しかし、山岳ベースにおいては、本人も周囲もそれを意識することができない閉鎖的状況が作られていたのだろうと推察される。
著者は「あのとき単純に“おれの友達に何をするんだ!”とぶつかっていけば、惨劇は避けられたはずだった」と悔やむが、大義の呪縛はその単純で自然な感情を許さないものだったのかもしれない。
現代の視点からみれば、なぜ彼らが、こうも激しくイデオロギー的熱狂に駆り立てられ、たやすく高揚感に身を任せてしまうのかと、危うさを感じてしまうが、それにはさまざまな要因があったことがわかる。
著者は、多くの若者たちにとって政治活動は「卒業していくファッション」だったが、連合赤軍は違ったと語る。
「イデオロギー」そのものは一概に悪いとも良いともいえないかもしれない。
だが、それが個人よりも上位に置かれ、個人の感情から目をそらすものとして利用された時、いかに残酷な事態を引き起こすかを教えてくれるという点において、現代にも通じる重さを持った本だった。
なお、著者は長い刑期を終え、現在はボランティアとして環境保全活動に取り組み、多くの成果をあげていると言う。
本作の最終章に詳細に語られているその活動には、かつての熱狂や対立の空気はなく、著者が少年期から望んでいた宮沢賢治の「でくのぼう」的生き方が反映されていると感じた。